top of page

裴奉奇さんの花、アザミのパターンデザイン募集

すでに発表したように、裴奉奇さんの花を見つけるPJTの結果、アザミが選ばれました。マリーモンドJPの企画商品としてアザミ商品を製作するため、花のパターンデザインを公募します。


<募集要項>

第1次締切;7月31日(月)


○ 応募要領

1:メールにて応募してください。

2:作品数は問いません(複数応募、複数採用可能です)。

3:Adobe Illustrator / Photoshop でご提出ください。

 ※手書きのものはスキャンしてデジタルデータ(推奨;Photoshop)でご提出ください。

4:縦横3500pixel以上、解像度300ppi


○審査・発表

1:審査はマリーモンドジャパンによって厳正に行います。

2:採用作品の発表はご本人に通知し、マリーモンドジャパンの公式サイト、SNSで公表します。採用されなかった方への通知は行いません。

3:採用作品については8月中に発表します。

○ 応募先及び問合せ先  mail:info@kibotane.org

○ 謝礼 採用作品1点につき5万円


○規定

1:採用作品に関しての著作権は主催者に帰属します。

2:作品は他社、他団体で使用されたことのない未発表のものに限ります(選ばれた後に他団体での使用や模倣が確認された場合は選定を取り消します)。

3: 採用作品は必要に応じ補作することがあります。啓発物の印刷、WEBでの利用、二次的著作物として使用することがあります。


※デザインにあたり、以下を参考にしてください。


1.これまでのマリーモンドの花パターン(花ハルモニプロジェクト)については以下をご覧ください。

https://www.marymond.jp/services-9


2.これまでのマリーモンドのパターンと、その利用例

https://www.marymond.jp/services-9-1


3.なぜアザミなのか

アザミは、草食動物から身を護るため葉に鋭いトゲがあります。そして綿毛状の種を風に乗せて飛ばします。この2つの特徴が裵奉奇さんを表す重要なポイントだと考えました。潔癖症で、取材者など周囲から身を守るようにひっそりと暮らしていた裵奉奇さん。日本軍「慰安婦」にされたことで心に刻まれた傷、その傷を掘り返そうとする人々に対する拒絶感として現れる裵さんの痛みを、アザミの葉の鋭いトゲが象徴しています。

そして、母国でも放浪し、戦後の沖縄でも「落ち着かん、落ち着かんのよ」と焼跡にできた町々をさまよい歩いた姿は、まるで風に飛ばされ根を下ろせる場所を探し求めるアザミの種のようです。

また、種にはもう一つの意味を込めました。実は裵さんも、決して殻に閉じこもり続けていたわけではなく、身近な理解者と交流する中で、自らの尊厳を回復する過程を歩み、日本政府の責任を問う声を上げていたのです。90年代に始まる解決運動に先駆けて、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める声を挙げた裵奉奇さんの遺志が、金学順さんたちへの闘いへとバトンタッチされたことは、まさに裵さんの存在が解決運動の種になったことを示しています。


4.裴奉奇さんの人生

裴奉奇さんは1914年9月に日本の植民地支配下の朝鮮・忠清南道(チュンチョンナムド)新礼院(シンレウォン)で生まれました。極貧の生活を送っていた裴さんは、数え7歳の時に他家にミンミョヌリ(将来その家の息子の結婚相手にするために、幼い時に連れて来て育てる少女)に出されました。出された家の主人に気に入られずに父の元に戻され、それを何度か繰り返す生活を送った裴さんでしたが、17歳のときに結婚しました。しかし結婚生活はうまくいかず、以後は朝鮮各地や満州をさまよいながら暮らしました。裴奉奇さんは20代のころの生活について「あっち転々、こっち転々」と言うだけで、ほとんど明かしていません。

29歳になった1943年、「仕事せんで金儲かるところがある」「木の下に口を開けて寝ていたら、バナナが落ちて口に入る」と見知らぬ男に欺され、釜山から船に乗って沖縄・渡嘉敷島の「慰安所」に連れて来られました。1944年11月から1945年3月末まで、「赤瓦の家」と呼ばれた「慰安所」で「慰安婦」としての生活を強要されました。その後、日本が敗戦し沖縄に動員された朝鮮人の多くは故国・朝鮮に戻りましたが、同胞の集団から外れ、朝鮮への帰還船の出発日も知らなかった裴奉奇さんはひたすら沖縄の地をさすらい続けました。

戦後は飲み屋での仕事をしながら沖縄各地を転々とします。飲み屋では性的な行為を強要されました。何度か他の仕事を試みたこともありましたが、うまくいかず再び飲み屋での仕事を続けました。こうしてひたすら場所を変えていった理由について裴奉奇さんは川田文子さんに「落ちつかん、落ちつかんのよ」と語っています。

日本軍「慰安婦」だったことを裴奉奇さん自身が明らかにすることになった契機は、日本の出入国政策が関係しています。沖縄の復帰前から法的な資格を一切持っていなかった裴奉奇さんは、1972年の「返還」を機に法的な手続きをせざるを得なくなります。出入国管理事務所の事務官からどのように沖縄に来たかを問われ、「慰安婦」として渡嘉敷島に連行されたことを明かしました。こうした事情を1975年10月22日に高知新聞が記事にしたことで、裴奉奇さんの存在が世の中に知られるようになりました。そのため望まない外部からの取材要請が増え、少なからぬ苦痛を受けることになります。

1991年10月に裴奉奇さんは息を引きとりました。裴奉奇さんの四十九日が開かれた日は、偶然にも金学順さんが東京地方裁判所に「慰安婦」被害補償の訴訟を提起した日でした。金学順さんが名乗り出るより前に裴奉奇さんが自身の過去について公表していたという事実は、その後の日本軍「慰安婦」問題解決運動を考えていく上でも忘れてはならないことです。








閲覧数:93回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page