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第三回「証言」を読む WS 金福童さんの回ご報告

更新日:2020年6月9日


キボタネ・ワークショップの第三回目では、キボタネ代表の梁澄子(ヤン・チンジャ)さんをチューターに、金福童(キム・ポットン)さんの証言を読みました。

梁さんの解説と、参加者の皆さんとの朗読を交互に行いながら、金福童さんの少女時代、「挺身隊に行け」と言われ、「慰安婦」にされた数年間、そして解放後に帰郷し、必死に生きて、1992年に名乗り出るまでのライフストーリーに、どんどん引き込まれていきました。

金さんは1926年に朝鮮半島慶尚南道(キョンサンナムド)の梁山(ヤンサン)の裕福な家庭で生まれ育ち、小学校も4年生まで通ったそうです。父親が借金の保証人になってしまったことがきっかけで没落し、父の死後は、母と姉妹6人、女だけで暮らしていました。

日本軍が独身の女性を集めているという話を聞くと、すぐ上のお姉さんは「日本人の奴らに連れて行かれないように」(証言、p.138)結婚しましたが、金さんはまた数えの16歳で幼かったため、心配ないだろうと家事手伝いをしていました。

すると、ある日、区長と班長が日本人とやってきて、「テイシンタイ(挺身隊)に娘を送るので出しなさい」(証言、p.139)と言い、金さんはそのまま連れていかれました、軍服をつくる工場で働くのだと、騙されて。

「… 日本で長く暮らしたという四〇歳くらいの男が私たちを見張ったり、通訳をしていました。…朝鮮人の男が見張り、日本人の男が缶にご飯とおかずを入れてくれました。」(証言、p.139)

このように、植民地主義の管理のシステムとして、いつも朝鮮人の男性の「協力者」がいるということを改めて証言として読み、参加者の中には「自国の男性にまで騙された」ということにショックを覚える人もいました。また、「テイシンタイ」に行くと騙された少女たちの多くは、農村の貧しい家庭出身であり、ここにも複合的な差別を生きる、より弱くされた立場の者が被害に陥るという「普遍的」な構造も、証言から具体的に理解できました。

長年、「慰安婦」としての生活を強いられた金さんは日本が当時占領・侵攻していたアジア太平洋地域を広範囲で移動しました。香港やシンガポール、インドネシアを転々としながら、大砲が聞こえるようなところで性暴力を受け続け、時には、「出張」もありその際には普段よりもはるかに多い軍人の相手をさせられたそうです。

「…時々、山深いところにある軍部隊まで出張もしました。軍人たちが護衛して、10人そこらの慰安婦が一緒に出かけました。移動する際は、ずっと幌を降ろしたままのトラックにのって行ったので、外をながめることは出来ません。テント一つで持運びの慰安所をつくり、テントの中を合板で間仕切りして、三、四人ずつ入れるようにします。慰安所の責任者はその部隊に別にいました。軍人たちがあまり大勢押し寄せたので、みんなせわしなくズボンを降ろすだけで用をすませ、腰ひもを結びながら外へ出ると、次の人がすかさず入って来ました。私たちははじめから脚をカエルのように曲げ、両側にひろげてやや斜めになった姿勢で、寝台に座ったり、寝たりして、そのまま一日中軍人たちの相手をしました。夜になると、脚をまっすぐ出来ないほどになりました。一週間はこうして過し、慰安所に帰るのでした。こうしてまた打ち明けていると、ほんとうに胸が痛くなります。」(証言、p.147)

まさに動物以下の扱いを受け、それでも生き延びるために、自らの怒りや悲しみをコントロールし、辛い毎日を耐えてきた金さんの語り。長期間「慰安婦」をさせられてきた方々の特徴の一つだと、チューターの梁さんは説明してくれました。いつ終わるかも分からない地獄の生活。感情をシャットアウトしない限り、到底耐え抜くことはできなかったのでしょう。

日本の敗戦を知らぬまま、シンガポールの病院に連れていかれ、日本軍性暴力を隠蔽するため、「慰安婦」ではなく「日本の看護婦」にされた金さんは、いずれ連合軍の収容所に入り、米軍と生活を共にしながら帰国船を待っていました。20歳になり、ようやく帰郷を果たし母親との再会を果たしますが「顔が変わってしまってお互いにわからないほどでした」(証言、p.153)。

お寺での療養生活、結婚、離婚を繰り返し、ある日テレビでの呼びかけをきっかけに、1992年1月17日に、日本軍に性奴隷にされた過去について申告されました。お姉さんの反対を押し切ってのことでした。家族と縁を切られ、孤独の中で生きている、と証言は締めくくられています。

金福童さんは、その後、活動家として証言やデモなど勢力的に活躍されてきました。近年では、「金福童奨学金」を通して朝鮮学校の学生の学びの支援もしてくださっています。教育を受け、二度と誰の身にもこのような暴力が降りかからないように、との金さんの思いを受け継いでいかなければ、との思いを新たにしたワークショップでした。ご参加いただいた皆様、チューターの梁さん、どうもありがとうございました。


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