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キボタネWS 安点順さんの証言を読む会

更新日:2020年6月9日


先日、キボタネWS「証言を読む」第一回が行われました。

挺対協の尹美香(ユンミヒャン)さんをお招きし、尹美香さんが実際にインタビューした安点順(アンジョンスン)さんの証言についてお話を伺いました。

「証言」を読むとは、この「問題」の原点に立ち返ることである。

そういう思いで始めた「証言を読む」WSですが、第一回にふさわしい重みと希望のある、そして参加者誰もに大きな宿題があることを気づかされた会になりました。以下、当日の様子です。

<キボタネワークショップ安点順さんの証言を読む会>

チューター:尹美香

通訳:梁澄子

2018年2月23日シビックセンターにて

<女性たちが声をあげはじめた90年代>

韓国の被害者が声をあげ始めたのはいつか。1991年8月14日の金学順(キムハクスン)さんの名乗りでがきっかけでした。これをきっかけに、挺対協は申告電話というものを設置しました。被害者が直接、申告できる窓口をつくったのです。電話を受け被害者の申告をメモしたものを挺身隊研究会というグループに渡し、研究グループと挺対協が一緒に被害者にインタビューしてきました。

一方で、私たちは韓国政府に対してタスクフォースチーム(TFチーム)をつくり、被害者を探し、真相調査を行い、それに対し対策を立てるよう要求しました。韓国政府は私たちの要求を受け入れて、1992年1月に外交省長官のもとにTFチームをつくりました。政府のTFチームが行った重要な取り組みは何かというと、区役所や市役所といった役所に「慰安婦」被害者達が名乗り出る窓口を設置させたことです。このことによって、被害者が声を上げられるルートがいくつかの形で行われるようになりました。

また太平洋戦争犠牲者遺族会というのもありました。これは日本で最初に裁判を起こしたグループです。そこに金学順さんも原告として入っていました。挺対協に申告した方のなかで、日本で裁判をしたい人がいれば、その方達のリストを遺族会に渡してその方達が日本での裁判に参加できるようにもしました。また遺族会でも遺族会の訴訟について広報していたので、直接、遺族会に被害を申告して訴訟に加わるという方たちもでてきました。

ですから90年代に直接政府が設けた窓口に申告した人、直接遺族会に申告した被害者に関して、私たち挺対協は把握していませんでした。

今日これからお話しする安点順さんは、水原の市役所に直接申告した人なんです。政府は2000年代以降は挺対協を通して被害者支援を行う方向に変わっていきます。そこで政府に直接申告した方達の名簿が挺対協にはいってきました。そこではじめて、私たちは安点順さんのことを知ることになりました。

<被害者の声を記憶していく。安点順さんとの出会い>

2000年というのは、ちょうど、日本で2000年女性国際戦犯法廷がひらかれた年ですね。ここで、天皇裕仁は日本軍「慰安婦」問題に関して有罪であるという判決がでました。この判決を勝ち取ったことで、被害者たちは、日本は変わるだろうと期待したんですね。しかしこの期待は実りませんでした。むしろ、裕仁有罪を言ったために、日本の右翼の声が高まってさらに反動的な動きが強くなりました。歴史教科書からも、日本軍「慰安婦」問題は削除されました。

そういうなかで韓国で何がおきたかというと、被害者のあいだに絶望感が広がったんです。挺対協としては2000年法廷のために、財政的、人的な力を全て注ぎ込んで準備したのに、法廷が終わった後、何をこれからすればよいのか、どうすればこの問題を忘れさせず、より拡散させることができるのか、深い悩みに陥りました。そればかりでなく、アジア女性基金は、被害者と支援者を分断させる動きを盛んに行っていました。

その厳しいときに、挺対協としては改めて被害者の声をきちんときこう、ということを柱にたてます。被害者が国民基金を受けとったのか、受けとっていないのかということには関わらず、本人が望みさえすれば、その方のインタビューを行い、記録を残しておこうという活動を改めて行うことになります。なにより被害者の死亡がそのとき続いていました。そこで2002年に女性家族省に政府に被害者が申告しているリストを挺対協に渡すよう提案しました。政府が女性たちを直接支援するのは限界があるので、挺対協に渡してくれれば女性たちに対する支援を一括しておこないますと提案しました。挺対協はこの名簿に基づいて被害者の声を聞くということを改めてはじめます。

この中に、安点順さんがいました。

さっそく被害者の声を聞いていくチームがつくられました。私は安点順さんと同じ水原に住んでいるので、安点順さんを担当したいと志願しました。しかし、私は安さんの申告書を読んで、驚きました。お兄さんが申告したんですが、被害内容の欄に何も書いていなかったんです。名前、年齢、住所、そして被害内容というところにはただ、「対人忌避」とこの四文字が書かれているだけでした。区役所の担当者に連絡して、電話番号も書かれていなかったので連絡先を教えてくれと頼みましたが、担当者は安さんが嫌がるからといって連絡先を教えてくれませんでした。五、六回そんなやりとりを繰り返した後、最終的に連絡先をもらいました。

安点順さんは1992年2月25日に申告をしていらっしゃいました。つまり、運動がはじまった非常に初期に既に申告されていたことになります。私が安点順さんを初めて訪ねたのは、2002年の春ですから結局申告からちょうど10年後に、やっと訪ねていったことになります。

私が初めておたずねしたときに、最初なので具体的な話しはできませんでしたが、私たちがどういう仕事をしているか、運動をしているかをお話しました。話すまでもなく、テレビニュースなどを通して、安点順さんはよくご存知でした。

そういう訪問を二回三回繰り返して、そのなかでハルモニのインタビューをして本にまとめたいという話しをしました。名前をだしたくなければ仮名で構わないというと仮名を条件に安さんがOKをしてくれました。安点順さんと相談して、仮名はソク・スニという名前にしました。そこで証言集にはソク・スニという名前で収録されています。

<安点順さんの証言〜貧しい少女時代〜>

安点順さんは1928年旧暦12月2日に生まれました。

被害者の申告実態というのをみますと、安点順さんのようにソウルから連行された人は非常に珍しいです。安点順さんはソウル市麻浦区で生まれ、そこで幼い頃を過ごします。9才のときにお父さんが亡くなりました。今では想像できないと思いますが、安点順さんのお母さんは12才のときに結婚を、満でいうと10才です、その年に結婚します。そして17才のときに、お兄さんを産みます、それから4年後に安点順さんを産み、6年後に妹を産みました。そして29才で夫を失いました。安点順さんの幼少時代が、どれだけ厳しいものだったか想像できると思います。

ただ幸いなことに、お父さんの長兄の家が商売をしていて裕福でした。お兄さんはそこで働き、お母さんも行商のようなことをしていました。しかし安点順さんは学校には通えませんでした。1928年旧暦で12月2日ですから、数え年の場合、生まれてからすぐにお正月を迎えて2才になる。当時は8才で小学校に入学するのですが、8才の年に学校に行ったところ他の子たちより幼い、そこで入れず、翌年に行くと、今度は「遅い」と言われて学校に入れなかったといいます。

学校に行けなかった安点順さんは子守をしたりなどお金を稼いで母親を助けました。被害者のハルモニたちの話しをきくと、幼少時代に大人のように生計を担っていたというハルモニが本当に多いです。

<安点順さんの証言〜14才。突然連れられる〜>

安点順さんが14才のときでした。町内放送で何才から何歳までの女の子はポクサコルという町の精米所に全員集まれという放送がありました。そこにお母さんと行くと、他の娘たちもお母さんと一緒に来ていました。そこでお米を計る天秤に乗れと言われ、乗りました。その場には軍人もいて、警察もいたそうです。町の人たちがたくさん見物をしていた。その前で、乗りたくないと抗うことはできませんでした。

安点順さんの記憶によれば、14才だった安点順さんは既に50キロ〜60キロあったそうです。安点順さんのお母さんもそうだけど、背が高く、体重もあるんですね。安点順さんは今も大きいです。そして、その時、体重があるので、そのままトラックに乗せられたというんです。ある程度体重の重い子がトラックに乗せられたといいます。

お母さんが泣いてしがみついたけれど、それはふりはらわれました。トラックの運転手の隣には軍人が乗っており、女の子たちがいたところにも軍人が二、三人いたと安点順さんは記憶しています。

そのトラックが行く途中で、女性たちを少しずつ乗せていくんです。ある時、汽車の駅についた。でもそこがどこか、安点順さんは分かりませんでした。なぜかというと、ずっとトラックの窓にカーテンがおろされていて、外を見られなかったんです。あるとき、それをそっとよけてみたら、漢江にかかる大きな橋のようなところを渡っていました。それが漢江なのかどうかは、本人もわかりません。しかし、汽車にのって降りた場所は北京でした。その北京からまた移動しました。

<安点順さんの証言〜砂漠のなかの慰安所〜>

最終的に安点順さんたちが降ろされたところには山もなく、草もなく、砂だけがある、そして軍人しかいない、そういう場所だったそうです。安点順さん自身がどこにつれられていったか、全くわからないので、軍事史や軍の移動史を研究している人たちが、移動経路や、家がどういうところだったのかという証言から、それがどこだったのかを推定してみました。その推定の結果が内蒙古ではないか、ということです。

安点順さんのいた慰安所には民間人はいませんでした。慰安所には慰安所を管理する民間人がいることが多いのですが、安点順さんのところにはいなかった。ご飯も軍人が運んできて、時には軍人と一緒に食事をすることもありました。恐らく慰安所を軍が直接運営していた一つの例ではないか、という推測ができます。

あるとき私は、安点順さんに、軍人達はコンドームを付けていましたかと聞いたことがあります。安点順さんが、こういう質問をいやがることは分かっていますが、聞かなければいけないので聞きました。答えたくない時に、安さんが必ずすることがありました、それは空咳です。はじめてハルモニのところにきた軍人は誰でしたか、と聞くと、空咳をする。空咳をされると、どうしても答えられないんだな、と思うのでやめて待ちます。しばらくたって、その質問を、折を見てする。そういうことがくりかえされるなかで、安点順さんがこの質問には答えなくちゃならないんだな、と考えてくださるときは話してくれました。

安点順さんが一番最初に連れて行かれた家は、砂が多い、まるで砂漠のような地域だったそうですが、そこに建てられた家は、床が温まるんです。しかし、韓国のオンドルとは違う。韓国のオンドルは焚き口があって、そこで料理をして、料理する熱で部屋をあたためる。しかしそこには焚き口がなく、ただ火をくべる洞窟のような穴が空いていたそうです。韓国のオンドルとは構造が違うが、何しろ床下に穴はありました。そこで安点順さんは初めての日、軍人に犯されそうになったとき、穴の中で一晩過ごして、逃れたそうです。その翌日、見つかってつかまり、怒られ、先に来ていた女性から、「軍人の言うことをきかなくちゃいけないんだよ」と言われ、すすめられてたばことアヘンを覚えました。

<安点順さんの証言〜死体を焼く匂いがする薬〜>

私が衝撃を受けたのは、一日一回どころか一週間に一回も顔も洗えなかったことです。

「でも下の方は軍人が行ったあとで洗わなくちゃいけないでしょ?」と聞くと、水がないから洗えないとのことでした。一ヶ月に一回くらい、水がなくなるころになると、水が入ったタンクを軍人達がもってきて、それをたらいのようなところに入れて、それで体を洗うことができた。そして軍人たちと一緒に移動することもありました。そういうときは、山の中にテントのようなものを張って、軍人の相手をしなければなりませんでした。

中国人の民家を奪って、その民家を慰安所にするのですが、例えば、大きな部屋が四つある家を慰安所にしたときに、はじめはそこに女性が5,6人しかいなかったんだけど、あとで女性が増えて10人くらいになったそうです。そうすると、一つの部屋に三人入れて、次の部屋に三人いれて、あとの部屋に残った女性を全部いれて、、、そのような状態になることもあったそうです。「それなら一つの部屋に女性が三人、そこに軍人が三人入ってくるということなので、布なので仕切りをつくったんですか?」と聞いたら、安点順さんは「仕切りなんてないよ」と言いました。この一つの部屋に仕切りもなしに、女性が三人いるなかに軍人が三人はいってくる、という、この状況についてもっと詳しく聞こうとしても、今にいたるまで、このことについては一回も具体的には話しをして下さったことはありません。ただそのなかでどういうことが起きたんですかときくと、「あいつらは獣以下だ」と、いつも、ただその一言を仰います。

他の被害者の方たち同様に、安点順さんも性病にかかり、梅毒にかかりました。梅毒にかかると606号という注射を打たれます。この606号を打たれた時の感覚というのは、どの被害者の方も全く同じことを言うのですが、黄色い匂いがする、と。死体がもえるときのような匂いがすると仰います。それを打たれると吐き気がして、目眩がすると、みなさん仰います。

ある一人の軍人のことを安点順さんは話してくれました。その人は来ると、「かわいそう、かわいそう」と、ここは日本語で覚えているのですが、そう言って背中をなでてくれて、ただじっと何もしないで時間を過ごしてくれる。そうすると休めるわけです。だからいつもその軍人を待っていたと、安点順さんは仰いました。

<安点順さんの証言〜18才、故郷へ帰る〜>

安点順さんが18才の時に戦争は終わりました。そして戦争が終わった時、安点順さんは中国人に殺されそうになります。他の女性のなかには実際に殺された女性もいたそうです。ところがある中国人が、「この女性は日本人じゃない」と言ってくれて助かったそうです。

日本の軍人が中国人に実際に殴り殺されるところも、安さんは目撃しています。そこから家に帰る道のりがはじまりました、他の女性たち何人かと一緒に物乞いしたり、中国人の家に泊めてもらったり、地べたに寝たりしながらその道のりを歩んでいきます。そうして北京までついたのですが、北京についたときは、一緒に出てきた女性たちは一人もいませんでした。

安点順さんは非常に運良く、光復軍に出会います。朝鮮独立軍ですね。光復軍の男性の名前は尹氏でした。この人の家に連れていってもらってこの方に安さんは自分がどういう目にあったのか話しをしました。ここで尹さんとその妻に8ヶ月間北京で見守られ、その後一緒に天津を経て朝鮮に帰る船に乗ることができました。