先日、キボタネWS「証言を読む」第一回が行われました。
挺対協の尹美香(ユンミヒャン)さんをお招きし、尹美香さんが実際にインタビューした安点順(アンジョンスン)さんの証言についてお話を伺いました。
「証言」を読むとは、この「問題」の原点に立ち返ることである。
そういう思いで始めた「証言を読む」WSですが、第一回にふさわしい重みと希望のある、そして参加者誰もに大きな宿題があることを気づかされた会になりました。以下、当日の様子です。
<キボタネワークショップ安点順さんの証言を読む会>
チューター:尹美香
通訳:梁澄子
2018年2月23日シビックセンターにて
<女性たちが声をあげはじめた90年代>
韓国の被害者が声をあげ始めたのはいつか。1991年8月14日の金学順(キムハクスン)さんの名乗りでがきっかけでした。これをきっかけに、挺対協は申告電話というものを設置しました。被害者が直接、申告できる窓口をつくったのです。電話を受け被害者の申告をメモしたものを挺身隊研究会というグループに渡し、研究グループと挺対協が一緒に被害者にインタビューしてきました。
一方で、私たちは韓国政府に対してタスクフォースチーム(TFチーム)をつくり、被害者を探し、真相調査を行い、それに対し対策を立てるよう要求しました。韓国政府は私たちの要求を受け入れて、1992年1月に外交省長官のもとにTFチームをつくりました。政府のTFチームが行った重要な取り組みは何かというと、区役所や市役所といった役所に「慰安婦」被害者達が名乗り出る窓口を設置させたことです。このことによって、被害者が声を上げられるルートがいくつかの形で行われるようになりました。
また太平洋戦争犠牲者遺族会というのもありました。これは日本で最初に裁判を起こしたグループです。そこに金学順さんも原告として入っていました。挺対協に申告した方のなかで、日本で裁判をしたい人がいれば、その方達のリストを遺族会に渡してその方達が日本での裁判に参加できるようにもしました。また遺族会でも遺族会の訴訟について広報していたので、直接、遺族会に被害を申告して訴訟に加わるという方たちもでてきました。
ですから90年代に直接政府が設けた窓口に申告した人、直接遺族会に申告した被害者に関して、私たち挺対協は把握していませんでした。
今日これからお話しする安点順さんは、水原の市役所に直接申告した人なんです。政府は2000年代以降は挺対協を通して被害者支援を行う方向に変わっていきます。そこで政府に直接申告した方達の名簿が挺対協にはいってきました。そこではじめて、私たちは安点順さんのことを知ることになりました。
<被害者の声を記憶していく。安点順さんとの出会い>
2000年というのは、ちょうど、日本で2000年女性国際戦犯法廷がひらかれた年ですね。ここで、天皇裕仁は日本軍「慰安婦」問題に関して有罪であるという判決がでました。この判決を勝ち取ったことで、被害者たちは、日本は変わるだろうと期待したんですね。しかしこの期待は実りませんでした。むしろ、裕仁有罪を言ったために、日本の右翼の声が高まってさらに反動的な動きが強くなりました。歴史教科書からも、日本軍「慰安婦」問題は削除されました。
そういうなかで韓国で何がおきたかというと、被害者のあいだに絶望感が広がったんです。挺対協としては2000年法廷のために、財政的、人的な力を全て注ぎ込んで準備したのに、法廷が終わった後、何をこれからすればよいのか、どうすればこの問題を忘れさせず、より拡散させることができるのか、深い悩みに陥りました。そればかりでなく、アジア女性基金は、被害者と支援者を分断させる動きを盛んに行っていました。
その厳しいときに、挺対協としては改めて被害者の声をきちんときこう、ということを柱にたてます。被害者が国民基金を受けとったのか、受けとっていないのかということには関わらず、本人が望みさえすれば、その方のインタビューを行い、記録を残しておこうという活動を改めて行うことになります。なにより被害者の死亡がそのとき続いていました。そこで2002年に女性家族省に政府に被害者が申告しているリストを挺対協に渡すよう提案しました。政府が女性たちを直接支援するのは限界があるので、挺対協に渡してくれれば女性たちに対する支援を一括しておこないますと提案しました。挺対協はこの名簿に基づいて被害者の声を聞くということを改めてはじめます。
この中に、安点順さんがいました。
さっそく被害者の声を聞いていくチームがつくられました。私は安点順さんと同じ水原に住んでいるので、安点順さんを担当したいと志願しました。しかし、私は安さんの申告書を読んで、驚きました。お兄さんが申告したんですが、被害内容の欄に何も書いていなかったんです。名前、年齢、住所、そして被害内容というところにはただ、「対人忌避」とこの四文字が書かれているだけでした。区役所の担当者に連絡して、電話番号も書かれていなかったので連絡先を教えてくれと頼みましたが、担当者は安さんが嫌がるからといって連絡先を教えてくれませんでした。五、六回そんなやりとりを繰り返した後、最終的に連絡先をもらいました。
安点順さんは1992年2月25日に申告をしていらっしゃいました。つまり、運動がはじまった非常に初期に既に申告されていたことになります。私が安点順さんを初めて訪ねたのは、2002年の春ですから結局申告からちょうど10年後に、やっと訪ねていったことになります。
私が初めておたずねしたときに、最初なので具体的な話しはできませんでしたが、私たちがどういう仕事をしているか、運動をしているかをお話しました。話すまでもなく、テレビニュースなどを通して、安点順さんはよくご存知でした。
そういう訪問を二回三回繰り返して、そのなかでハルモニのインタビューをして本にまとめたいという話しをしました。名前をだしたくなければ仮名で構わないというと仮名を条件に安さんがOKをしてくれました。安点順さんと相談して、仮名はソク・スニという名前にしました。そこで証言集にはソク・スニという名前で収録されています。
<安点順さんの証言〜貧しい少女時代〜>
安点順さんは1928年旧暦12月2日に生まれました。
被害者の申告実態というのをみますと、安点順さんのようにソウルから連行された人は非常に珍しいです。安点順さんはソウル市麻浦区で生まれ、そこで幼い頃を過ごします。9才のときにお父さんが亡くなりました。今では想像できないと思いますが、安点順さんのお母さんは12才のときに結婚を、満でいうと10才です、その年に結婚します。そして17才のときに、お兄さんを産みます、それから4年後に安点順さんを産み、6年後に妹を産みました。そして29才で夫を失いました。安点順さんの幼少時代が、どれだけ厳しいものだったか想像できると思います。
ただ幸いなことに、お父さんの長兄の家が商売をしていて裕福でした。お兄さんはそこで働き、お母さんも行商のようなことをしていました。しかし安点順さんは学校には通えませんでした。1928年旧暦で12月2日ですから、数え年の場合、生まれてからすぐにお正月を迎えて2才になる。当時は8才で小学校に入学するのですが、8才の年に学校に行ったところ他の子たちより幼い、そこで入れず、翌年に行くと、今度は「遅い」と言われて学校に入れなかったといいます。
学校に行けなかった安点順さんは子守をしたりなどお金を稼いで母親を助けました。被害者のハルモニたちの話しをきくと、幼少時代に大人のように生計を担っていたというハルモニが本当に多いです。
<安点順さんの証言〜14才。突然連れられる〜>
安点順さんが14才のときでした。町内放送で何才から何歳までの女の子はポクサコルという町の精米所に全員集まれという放送がありました。そこにお母さんと行くと、他の娘たちもお母さんと一緒に来ていました。そこでお米を計る天秤に乗れと言われ、乗りました。その場には軍人もいて、警察もいたそうです。町の人たちがたくさん見物をしていた。その前で、乗りたくないと抗うことはできませんでした。
安点順さんの記憶によれば、14才だった安点順さんは既に50キロ〜60キロあったそうです。安点順さんのお母さんもそうだけど、背が高く、体重もあるんですね。安点順さんは今も大きいです。そして、その時、体重があるので、そのままトラックに乗せられたというんです。ある程度体重の重い子がトラックに乗せられたといいます。
お母さんが泣いてしがみついたけれど、それはふりはらわれました。トラックの運転手の隣には軍人が乗っており、女の子たちがいたところにも軍人が二、三人いたと安点順さんは記憶しています。
そのトラックが行く途中で、女性たちを少しずつ乗せていくんです。ある時、汽車の駅についた。でもそこがどこか、安点順さんは分かりませんでした。なぜかというと、ずっとトラックの窓にカーテンがおろされていて、外を見られなかったんです。あるとき、それをそっとよけてみたら、漢江にかかる大きな橋のようなところを渡っていました。それが漢江なのかどうかは、本人もわかりません。しかし、汽車にのって降りた場所は北京でした。その北京からまた移動しました。
<安点順さんの証言〜砂漠のなかの慰安所〜>
最終的に安点順さんたちが降ろされたところには山もなく、草もなく、砂だけがある、そして軍人しかいない、そういう場所だったそうです。安点順さん自身がどこにつれられていったか、全くわからないので、軍事史や軍の移動史を研究している人たちが、移動経路や、家がどういうところだったのかという証言から、それがどこだったのかを推定してみました。その推定の結果が内蒙古ではないか、ということです。
安点順さんのいた慰安所には民間人はいませんでした。慰安所には慰安所を管理する民間人がいることが多いのですが、安点順さんのところにはいなかった。ご飯も軍人が運んできて、時には軍人と一緒に食事をすることもありました。恐らく慰安所を軍が直接運営していた一つの例ではないか、という推測ができます。
あるとき私は、安点順さんに、軍人達はコンドームを付けていましたかと聞いたことがあります。安点順さんが、こういう質問をいやがることは分かっていますが、聞かなければいけないので聞きました。答えたくない時に、安さんが必ずすることがありました、それは空咳です。はじめてハルモニのところにきた軍人は誰でしたか、と聞くと、空咳をする。空咳をされると、どうしても答えられないんだな、と思うのでやめて待ちます。しばらくたって、その質問を、折を見てする。そういうことがくりかえされるなかで、安点順さんがこの質問には答えなくちゃならないんだな、と考えてくださるときは話してくれました。
安点順さんが一番最初に連れて行かれた家は、砂が多い、まるで砂漠のような地域だったそうですが、そこに建てられた家は、床が温まるんです。しかし、韓国のオンドルとは違う。韓国のオンドルは焚き口があって、そこで料理をして、料理する熱で部屋をあたためる。しかしそこには焚き口がなく、ただ火をくべる洞窟のような穴が空いていたそうです。韓国のオンドルとは構造が違うが、何しろ床下に穴はありました。そこで安点順さんは初めての日、軍人に犯されそうになったとき、穴の中で一晩過ごして、逃れたそうです。その翌日、見つかってつかまり、怒られ、先に来ていた女性から、「軍人の言うことをきかなくちゃいけないんだよ」と言われ、すすめられてたばことアヘンを覚えました。
<安点順さんの証言〜死体を焼く匂いがする薬〜>
私が衝撃を受けたのは、一日一回どころか一週間に一回も顔も洗えなかったことです。
「でも下の方は軍人が行ったあとで洗わなくちゃいけないでしょ?」と聞くと、水がないから洗えないとのことでした。一ヶ月に一回くらい、水がなくなるころになると、水が入ったタンクを軍人達がもってきて、それをたらいのようなところに入れて、それで体を洗うことができた。そして軍人たちと一緒に移動することもありました。そういうときは、山の中にテントのようなものを張って、軍人の相手をしなければなりませんでした。
中国人の民家を奪って、その民家を慰安所にするのですが、例えば、大きな部屋が四つある家を慰安所にしたときに、はじめはそこに女性が5,6人しかいなかったんだけど、あとで女性が増えて10人くらいになったそうです。そうすると、一つの部屋に三人入れて、次の部屋に三人いれて、あとの部屋に残った女性を全部いれて、、、そのような状態になることもあったそうです。「それなら一つの部屋に女性が三人、そこに軍人が三人入ってくるということなので、布なので仕切りをつくったんですか?」と聞いたら、安点順さんは「仕切りなんてないよ」と言いました。この一つの部屋に仕切りもなしに、女性が三人いるなかに軍人が三人はいってくる、という、この状況についてもっと詳しく聞こうとしても、今にいたるまで、このことについては一回も具体的には話しをして下さったことはありません。ただそのなかでどういうことが起きたんですかときくと、「あいつらは獣以下だ」と、いつも、ただその一言を仰います。
他の被害者の方たち同様に、安点順さんも性病にかかり、梅毒にかかりました。梅毒にかかると606号という注射を打たれます。この606号を打たれた時の感覚というのは、どの被害者の方も全く同じことを言うのですが、黄色い匂いがする、と。死体がもえるときのような匂いがすると仰います。それを打たれると吐き気がして、目眩がすると、みなさん仰います。
ある一人の軍人のことを安点順さんは話してくれました。その人は来ると、「かわいそう、かわいそう」と、ここは日本語で覚えているのですが、そう言って背中をなでてくれて、ただじっと何もしないで時間を過ごしてくれる。そうすると休めるわけです。だからいつもその軍人を待っていたと、安点順さんは仰いました。
<安点順さんの証言〜18才、故郷へ帰る〜>
安点順さんが18才の時に戦争は終わりました。そして戦争が終わった時、安点順さんは中国人に殺されそうになります。他の女性のなかには実際に殺された女性もいたそうです。ところがある中国人が、「この女性は日本人じゃない」と言ってくれて助かったそうです。
日本の軍人が中国人に実際に殴り殺されるところも、安さんは目撃しています。そこから家に帰る道のりがはじまりました、他の女性たち何人かと一緒に物乞いしたり、中国人の家に泊めてもらったり、地べたに寝たりしながらその道のりを歩んでいきます。そうして北京までついたのですが、北京についたときは、一緒に出てきた女性たちは一人もいませんでした。
安点順さんは非常に運良く、光復軍に出会います。朝鮮独立軍ですね。光復軍の男性の名前は尹氏でした。この人の家に連れていってもらってこの方に安さんは自分がどういう目にあったのか話しをしました。ここで尹さんとその妻に8ヶ月間北京で見守られ、その後一緒に天津を経て朝鮮に帰る船に乗ることができました。
船に乗って帰ってきて、仁川港から汽車に乗って家にたどり着きます。ちょうど故郷にたどりついたとき、お母さんが、娘の無事を願って祈祷をしてまわっているところにばたりと出会ったそうです。家に戻り一、二ヶ月の間は、熱があがったりさがったり、死にそうになったりという状態で過ごされました。
<安点順さんの証言〜生き抜くための生活〜>
安さんには一人お兄さんがいるのですが、経済活動をほとんどしない人だった。そこで安さんは病から回復するやいなや家長としての道を歩むことになります。朝鮮戦争のときは大邱に避難して、そこで、母親と一緒に米軍部隊の洗濯をして家計を支えます。そのときも数え年でまだ23才です。
29才のとき、友だちが江原道で飲み屋をやっていて、そこを手伝ってくれといわれ手伝っていました。このときにお母さんが亡くなったので、安さんはお母さんの死に目にはあえませんでした。お兄さんはそのときも大邱にいました。1959年32才のとき、安点順さんはまた大邱にもどって、米軍部隊の近くで飲み屋さん、ご飯を出したりお酒を出す店をはじめます。米軍部隊の近くだったので、お店の近くに来る米軍たちが、拳銃をくれたりチョコレートをくれたりすることもあったそうです。ふつうだったら、そういったものを売りさばくこともするでしょう。それでも安点順さんは、銃が手に入ったら警察に渡し、食料品をもらったら貧しい人にあげるなど、稼ぐことには全く才覚のない人でした。
実はそのころ、そこで、裵春姫(ペ・チュニ)さんという、他の被害者に出会っていらっしゃいます。ナヌムの家にいて、2014年に亡くなった方です。
安点順さんの記憶では、当時、裵春姫さんはサーカス団の歌手をしていました。その当時はもちろん、二人はお互いに「慰安婦」被害者であることは知らないわけです。後に、二人とも申告をして活動する中で出会って、お互いに「あ、あのときの」と体験を語り合ったそうです。
そのように大邱で過ごしていたんですが、その時代に詐欺にあったりなど辛い目にもあっていました。水原に、お兄さんの息子たちがいました。安点順さんからすれば甥ですね。その中の一人が、おばさん、水原に来て一緒に住みましょう、と言ってくれた。安さんのお兄さんが経済活動をしない人なので、安さんが自分の子どものように育て上げた子どもです。安さんは子どもを産んだことがないのでおっぱいなど出ないわけですけど、自分のおっぱいをふくませながら、育て、学費をかせいで勉強をさせた、そういう子たちだったので、その子たちが安さんを水原に呼びます。それがちょうど1992年です。ちょうど、申告の直前くらいに、水原に移ります。
<安点順さんの証言〜声をあげる戦い〜>
安点順さんは体験について聞くと、空咳をしてごまかすというのを続けてきた。とてもじゃないけれどこんなことを全部覚えていたら生きてこられなかったと言って、過去を忘れよう忘れようとして、生きてきたわけですね。しかし私に過去の経験を話してくれたあとで、彼女が言ってくれたことは、「ああすっきりした、これでやっと生きていける気がする」と仰いました。ですから、対人忌避症と言われていたあの文字は、実は、私はさみしい私は孤独だ、という叫びだったのだと思います。
2002年に挺対協と出会って証言をした後、安点順さんは他の被害者とも会うようになります。挺対協は被害者たちと人権キャンプというものをしていた。そこで被害者どうしが集まると自慢の歌を歌ってくれた。
韓国社会ではあの年代の女性が妙に歌がうまいと、「水商売してたんじゃないか」とか、そういう偏見があるので、実は被害者たちは老人会などに行っても警戒してわざと歌わないようにしていた方が多いんです。安点順さんもそういう方だったんですが、人権キャンプでは自慢の喉もきかせてくれました。
2003年7月4日〜8日には日本にきて証言活動もしました。2003年8月15日の解放記念日にもいらっしゃって、他の方とお祝いした。つまり、対人忌避症ではなくなったわけです。実は、誰よりも愛情表現が豊かで、私たちに対しても、他の被害者に対しても、情の深い方だということがわかりました。
2003年にはILOの国際シンポジウムがソウルであったのですが、その時も参加して下さいました。
そのように2004年までは安点順さんは色んな活動に出てこられたのですが、2005年から5年くらい活動写真が全くみあたらないんです。もちろん私たちは訪問を続けていましたから、私たちが訪れた時の写真はあるのですが、安点順さんが社会的な活動をしている写真はこの五年間、ぷっつりありません。それは安点順さんが声をあげ活動をしたのに、地元の水原地域に変化がなかったためでした。
<安点順さんの証言〜安点順さんの声によって変わった町、人々〜>
それで私は水原の市長に会って安点順さんに関心を持ち、支持することを訴えます。市長は直接安点順さんの家を訪問しました。そしてその市長の姿をみて−−−韓国は市の下に区がある−−−−区長や統町が関心を示し、農協からお米が送られたりなど、2005〜2007年くらいまで続くようになりました。そして同時に水原の市民に対し、ハルモニを地域で支援する会をつくってほしいと呼びかけましたが、その頃はまだできていませんでした。そこで私や挺対協ではなく、若い世代がハルモニを訪問するのがいいと考えました。若い世代には偏見がない。高校生たちは、トイレットペーパーやたわしなどの生活用品を持って安点順さんの家にいって、「慰安婦」の体験を聞くのではなく、自分たちが学校であったことなどを話して、ケラケラ笑い転げたりしているんですね。そういう形で子どもたちの支援を感じられるようにしました。子どもたちは水曜デモに参加して、安点順さんとの交流について話してくれました。
そのように2004年以降、「慰安婦」体験について証言をしなくなった安点順さんでしたが、2013年に吉見義明さんが証言を聞きたいと申し入れをしたことによって、安点順さんは再び口を開くことになります。
このことをきっかけに再び安点順さんの活動がはじまりました。戦争と女性の人権博物館にも来て下さるようになり、その博物館の近くに他の被害者の方々が住む家(平和のウリチプ)があるのですが、そこにも訪ねていき、また、それまで顔を明かしていなかったのに水曜デモに参加されるようにもなりました。
そして、水原地域が変わっていきます。
2014年、「平和の少女像」が水原地域に建てられ、安点順さんと平和の少女像を守っていく、「水原平和ナビ」という団体がついに創られました。安点順さんの表情が、変わりました。様々なところでマイクを握るのですが、マイクを握った安点順さんが必ず言うのは「ありがとう。皆様に祝福があることを願います」という、そういうお話をされるんですが、本当に表情が明るくなっています。そして2015年日韓合意が結ばれるわけですが、これに対し、誰より激しく運動されたのは、安点順さんです。朴槿恵政権への弾劾があった時には、弾劾を求める署名もされました。
安点順さんは今、大病を煩っています。慰安所で14才の時に覚えたたばこを85才になるまで吸い続けました。私がインタビューを行うときも、1時間で一箱吸う。一言言っては、深く煙を吸っていました。肺がんの末期で、まったく手をつけられない状況です。そういうなかでも、よいことがありました。昨年末なのですが、安点順さんは90才になられました。安点順さんの誕生日が水原で行われたのですが、市民が300人以上も集まったんです。市民や市議会議員が集まって大礼(ひざまずいて深くお辞儀をする礼)をして、安点順さんにプレゼントをしました。
地域の市民は安点順さんに感謝をしています。安点順さんのおかげで地域社会が変わったんです。安点順さんの余生は限りあるものになっていますが、地域社会は変わり、そして私たちも安点順さんのおかげで大切なものを学びました。
安さんの言葉を紹介します。
「今からでも、日本人が一言でも、謝罪してくれれば終わることなのに。今、少女像を撤去しろとか言っていて。少女像が何か言うわけでもないのに。ただおとなしく座っているだけなのに。億万金をもらっても私の青春が帰ってくるわけじゃないじゃない。日本が10回100回大統領に謝罪したとしても、その人たちに謝罪してもしょうがない。本人たちのそばに来て、一言謝罪するのが、原則じゃないか」
会場からはいくつかの質問がありました。
Qインタビューを通じて、尹美香さん自身が変わったことはありますか。
尹美香:まず最初に安点順さんの証言をききはじめたときは、この方の証言を採録しなければいけないという責任感を感じていたと思います。安点順さんが隠してきた話を私は引き出す役割を担っているのだという責任感です。
そのためにはまず、安点順さんと感情を一致させることを心がけました。可能な限り安点順さんが話している時に書くことも遮ることもしなかった。まずは安点順さんの心のしこりを解くことから始めようとした。涙を流すときは一緒に泣き、ためいきをつくときは一緒にためいきをつく。
もう一つの姿勢は待つと言うことです。十分に話が出来るように、待つことも必要です。でもそれは受動的な「待ち」ではいけないと思いました。証言をするなかで安点順さんが話せなくなる時があります。そのときは待たなくてはいけないのですが、なぜこれが言えないのかという理由を考えながら、いわば、能動的な「待ち」といえばいいのでしょうか。証言ができなくなっている期間に、他の被害者の方に会っていただくとか、安点順さんが考えることのできる時間をつくる、そういった色んな工夫をした「待ち」の時間を並行して持つようにしました。
私には一つの強みがあったと思います。それは私が研究者ではないと言うことです。論文や発表を目的にしていたわけではない。それが強みでした。私たち支援者はインタビューをして証言を聞きながら、ハルモニたちとの信頼関係を結ぶことが大切でした。そういうなかで安点順さんも、この人たちは自分の証言を利用する者ではないと信じて下さったのだと思います。そういうなかで、安点順さん自ら主体的に運動に近づいて下さることになったのだと思います。
挺対協は結成から27年経っています。続けられたのは、被害者の証言を聞いたからだと思っています。人権運動をやっている先輩からこういうことを言われたことがあります。
「被害者と運動家があまり密着すると大変だ。ある程度距離をもって関係性を結んでいった方が、被害者から傷つけられることもすくなく、運動も長続きするんだ」と。
私はそれに対し批判しました。やはり被害者たちが、この運動をしている人は自分たちと違わないと感じて下さることが重要だと思います。私自身、被害者に会うことによって、大きく変わりました。そのことを誰よりも自分がわかっています。韓国社会が持っていた偏見を、被害者と出会うなかで私自身が持っていたことにも気がつかされました。韓国社会の暴力性というもののなかに、私も属していたんです。民衆の中の民衆である女性、その女性の人権、虐げられている女性の人権の象徴が、「慰安婦」被害者たちだと思います。だからまさに、この方たちの人権回復ができなければ、韓国社会が人権の守られる社会になることはないということも知ることができました。
具体的に私自身の偏見について話しましょう。米軍基地村の運動にも私たちは関わっていて、米軍周辺で性売買をしてきた女性たちの支援運動をたちあげたとき、私はこういう告白をしました。幼い頃、とても派手な化粧と服装で帰ってくる女性がいました。その女性をみて大人たちが「洋公主だ」(米軍の売春婦という意味)といっていました。その言葉の意味はわからないまま、私は大人たちの雰囲気からその言葉の意味を感じて、近所の子どもたちに蔑みの気持ちを共有した形で「あのお姉さんは、洋公主なんだって」と言った記憶があります。鮮烈な記憶として残っています。それは「慰安婦」被害者に向けられる韓国社会の眼差しと全く同じです。そのことを米軍基地村の女性たちに私は謝罪したことがありました。また韓国には性売買集積地があるのですが、そこで働いていた女性たちと出会うことによって、私自身のなかにある、そのような意識を顧みることもできました。証言を聞く過程は、私にとっての学びの場であり、被害者の女性たちに感謝をしています。
Q日本人として植民地支配の問題と「慰安婦」問題は切り離せないと考えている。女性の人権の問題だけではない。
尹美香:重要なご指摘だと思います。私は韓国人の運動家なので、韓国人の運動家として「慰安婦」問題に接するとき、人権意識が非常に重要だと考えています。韓国社会が国益というものより、平和と人権を重要視する社会であってほしいという意識で、「慰安婦」問題にも取り組んでいます。
しかし、ベトナム問題に関わるときは別のアプローチをすることもあります。ベトナム政府はベトナム戦争でうまれた問題に対して、女性の性暴力に向けては違った扱いをする。他の問題に対しては、ベトナム政府も声をあげているのに対し、女性が受けた性暴力に対しては語ろうとしません。そこで韓国人兵士の被害にあったベトナム人女性達にアクセスしようとする私たちが、ベトナム政府から遮断され近づけない状況なんです。ベトナムの性暴力被害者に対しても普遍的な人権問題としてアプローチしているんですが、それに加えて韓国の運動家としては加害国の市民としてのアプローチも常にあります。
金福頭ハルモニがこう仰いました。
「私自身も被害者だが、大韓民国の国民としてベトナム人女性に申し訳ないと思う」
非常に正しい姿勢だと思います。ですから日本の市民のみなさんも、日本の市民が持つべき態度というのを討論しながら、考えていく過程を踏んでいっていただければいいのだと思います。それは一つの道しかないということはないのだと思います。
<尹美香氏から最後に>
<尹美香氏から最後に>
「慰安婦」問題は女性の人権問題であり、戦時性暴力被害者の被害回復の問題であり、再発を防止するためのものなのだということを積極的に私たちが運動のなかで主張するようになったのは2000年代以降です。
もちろん、その前にもそういう取り組みがなかったわけではありません。しかし90年代は、「慰安婦」被害者達の被害回復に対する熱望を日本政府に伝え日本政府を動かすというのが、私たちの急務でした。そのことに精力をそがれ、それが非常に大変な運動だったので、なかなか、他の世界に目を向けた運動ができませんでした。
90年代は国際社会で世論化することが重要で、国際社会で勧告を引き出したり、決議をあげさせることが重要な活動でした。他の国の女性団体や人権団体が「慰安婦」問題に積極的に乗り出すように働きかける運動が90年代の運動だとすれば、2000年代は国際社会で積み上げて来た成果を、他の国の性暴力被害者、コンゴやウガンダなどの被害者たちに向ける、他の被害者たちに貢献することができるよう、私たち自身が変わっていきました。私たち自身がそこに近づいていく、という風に変わっていったんです。
韓国軍によるベトナム問題も韓国社会に積極的に持ち出しました。
周りでは、「慰安婦」問題を扱う私たちが、ベトナムの問題にまで声をあげることは、逆に混乱を引き起こす危険なことだという声もありました。それでも私たちは「慰安婦」問題をあくまでも女性の人権の問題だと考えていて、日韓問題ではないと考えていたので、ベトナム問題を扱うことは、私たちにはあたりまえのことでした。その結果どうなったかというと、韓国社会でベトナム問題が多く語られるようになってきました。
人権意識の高まりがなければ、慰安婦問題の解決はできないと思います。性別の問題、民族の違い、皮膚の色の違い、性的指向の違いによって、人権が蹂躙され抑圧されることに対し、変化の過程が必要なわけですが、その韓国社会の変化の過程に大きな役割を果たしたてくれたのが、「慰安婦」被害者たちだったと思います。「慰安婦」被害者達が韓国社会に対し、女性の人権の問題を投げかけてくれることがなければ、今のように韓国社会が女性の問題やジェンダー問題を語れるようにはなっていなかったと私は思います。
既に証言が出来る方が少なくなっている現時点で、私たちの役割は非常に大切だと思います。私たちの世代が声を聞くだけで済むのかと言うことです。未来世代に記憶継承がきちんとなされているか、検証する必要があります。
もう一つは教育の問題です。教科書と言った制度教育の問題もありますが、もう一つは社会教育の問題です。いくら私たちが日本大使館の前で、つみあげてきた戦いについて語ったとしても、メディアが一瞬にしてそういうものを粉々にしてしまうこともあり得る。それは日本でも韓国でもありうることです。こういったことに対し、私たち市民社会の領域で変化を求めていくことが重要です。そうでなければ日本軍慰安婦問題を人権問題として見る視点というのを育てていくことは難しいでしょう。
通訳:梁澄子
まとめ:北原みのり